「なあ、美香ちゃん。ホントにこんなところで良いの? ちゃんと家まで送っていった方が……」

「へーき、へーき。むしろ、今日お父さん帰ってきてるはずだから、送られた方がやばいよ。男連れでこんな時間まで何してたんだー、って」


 雲に遮られ、月明かりもほとんどない深夜。
 風原美香は自分を車で自宅近くまで送ってくれた恋人、正人にそう言って苦笑した。

 正人が久々にバイトのない週末、と言うことで出来ればそのまま彼の家に泊まりこみたいところだが、海外出張していた父親が久々に帰ってくるとなれば、そういうわけにもいかない。
 もっとも、なんだかんだとやっているうちにこんな時間になってしまったが……。


 ――ま、帰ってくるのは真夜中って言ってたし、何とかなるよね。制服のまま行ったから、学校帰りに友達とだべってたって言えば言い訳も効くだろうし。


 正人は着たままでやりたがったが、皺がつくからとちゃんと脱いで畳んでおいたから平気だろう。
 一応、ぱたぱたと体を見回して、特に気にする必要がない事を確認し、家に向かって歩き始める。






 歩き始めてしばらく。美香は、妙な息苦しさにふと立ち止まる。
 誰かに追いかけられているような。そんな圧迫感。

 思わず背後を振り返るが、背後にあるのは闇だけ。

 あたりには、全く人の気配がない。
 無論、美香の両脇にはごく普通の民家が建っている。
 明かりもついており、中からは人の声だって聞こえてくる。

 だがまるで、美香のいるこの道路だけ周囲から隔絶されてしまったかのような、そんな感覚がある。

 通りなれたはずのこの道が、全く知らない異空間のように感じられる。


 怖かった。なぜかは分からないが、無性に怖くなった。

 いつの間にか、美香は駆け出していた。
 背後からの得体の知れない何かから逃れるかのように。



 そして――。



 気づくと家の前だった。
 古びてはいるが、しっかりとした一戸建て。
 家の中にはすでに明かりがついており、人の気配もあった。

 それを見て、あ、という安堵の声が洩れる。


「――よかった、お父さん帰ってきてたんだ」


 さっきまで感じていた恐怖が、嘘のように消えて行く。
 すると、急におかしさがこみ上げてきた。

 一体自分は何をそんなに恐れていたのだろうか。

 別に怖がることなんてない。ただ、ちょっと空が曇っていたせいであたりが薄暗かった。
 その上電灯が切れかかっていて、周囲に人通りがなかった。
 たったそれだけの、いくつかの偶然が重なっただけの、なんでもない事。

 安堵から、思わず声も洩れる。
 もう深夜だと言うのに、美香は声をあげて笑ってしまった。



「あはは……は……」



 その笑いが、途中で凍った。


 美香の家の前。闇の中、そこだけ切り取ったように照らし出された街頭の下、一つの影があった。



「風原美香、だナ?」



 くぐもった声が、美香に向けて投げかけられる。
 声の主の姿を認めた瞬間、美香はひ、と悲鳴を上げてあとずさった。


 その影は、普通の人間ではなかった。
 確かにそのシルエットは人間に近いと言えるかもしれない。

 だが、普通の人間には、全身がカエルの皮膚のようにぬめぬめと濡れてなどいない。
 舌が胸のあたりまでだらりと長く垂れている事もないし、腕から得体の知れない液体をぽたぽたと滴らせている事などありえない。

 そう、それは一言で言うならば、怪物だった。



「答ヱろ。風原教授ハ何処に行ル?」



 ぬちゃり、と体液を滴らせながら怪物が言う。

 だが美香は、そんな言葉など聞いていない。
 何とか腰を抜かさずにすんだ彼女は足をもつれさせながらも怪物に背を向け、懸命に走りだした。


 走りながら、息も絶え絶えに叫ぶ。何を叫んだかなど自分でも良くわからない。
 ただ、『誰か』とか『助けて』とか、そんなことを口にしていたのだと思う。

 だが、数メートルもいかないうちに、しゅ、という空気を裂くような音が鳴り、気づくと美香の体は地面に倒れていた。



「え、な……何!?」



 ふと違和感を感じて足を見ると、そこにはぬめぬめとした舌が絡み付いていた。
 あの怪物の舌が、まるでカエルのそれのように伸び、美香の足に絡みついたのだ。
 怪物はゆっくりと伸ばした舌を引き寄せながら、一体どうやっているのか、先ほどと変わらぬくぐもった声で言う。


「まアいい。教授がどコに隠れテいようと、娘ヲ人質にすれバ姿を現サないわけニはいくマイ。サあ娘、我らとトもに来てモら――」


 瞬間、怪物の言葉を断ち切るように乾いた銃声が響く。
 ぱっと青黒い体液が飛び散り、怪物は右肩を抑えよろめく。

 衝撃で力が緩んだその隙に美香は怪物の舌を振りほどいていた。
 が、怪物はもはやそんな美香に目をくれず、銃弾の飛来してきた先をぎょろりとした魚のような眼で睨む。
 そんな怪物めがけて続けて銃弾が撃ち込まれるが、怪物は異様な弾力のあるその舌で銃弾を弾き返した。

 にやり、と嘲笑するように怪物の口元が歪み、しかし今度は逆側から人の気配。

 気づいた怪物が振り向こうとするが、それより早く飛び出してきた人影が怪物を蹴り飛ばす。
 ぐげ、という潰されたような悲鳴をあげ、怪物は壁に叩きつけられた。


「な、何……!?」


 助かったのか、それとも怪物が増えただけなのか、判断できず美香は動けない。
 一方怪物は、ゆっくりとブロック塀から体を引き剥がし問う。


「……貴様、何者ダ?」


 怪物の言葉に、人影は無言で構える。
 それを見た怪物は小さく頭を振り、


「いいダロう。今日のトころは引キ下がッてやる。だガ、我らかラ逃れられルとは思わヌことダな」


 そう言って、怪物は大きく飛び上がり、民家の屋根伝いに夜の闇へと消えていく。
 残された人影は油断無くあたりに注意を向けていたが、しばらくして構えを解き、美香の方に振り向いた。

 その時ちょうど雲が晴れ、月明かりが人影の姿を照らし出す。

 有機的な装甲のようなものに覆われた青い体に、胸部を覆う鈍い銀色のプロテクター。
 人間に比べ遥かに大きな眼は昆虫のような複眼になっており、オレンジの光を放っている。






 その姿に、ほんの少しだが見覚えがあった。
 まだ美香が小さかった頃、関東を中心に起きた怪事件。
 その犯人であり、人間を遥かに越えた能力と残忍さを持った怪物たち。


 その名を、未確認生命体。






 彼女は忘れていた。
 その未確認生命体から、人々を守りぬいた戦士がいたことを。
 彼は何も求めなかった。
 ただ、みんなに笑顔でいて欲しかったから。
 皆の笑顔のために。ただそれだけのために、彼は傷付き、血を流しながらも闘った。

 戦いが終わった後、彼がどこへ消えたのか。
 それを知るものは誰もいない。


 月日は流れ、人々は彼の名を忘れてしまった。
 彼を覚えているのは、ほんの一握りの人たちだけ。

 ほとんどの人は、彼の名を覚えていない。

 ヒーローは、もう、いない……。






続く……