×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。





 一人暮らしをすると、いろいろ気づかされることが多いです。

 例えば、ゴミ出しや買い物といった、ごく普通のこと――それすらも佐祐理は、こうして一人暮らしをするまでめったにしたことはありませんでしたけど――が、雨が降っているというだけで、こうも大変になるということとか。


 アパートの前の収集所に袋を持っていく、という何気ない行動も、両手がゴミ袋で塞がっているので傘が持てませんし、雨に濡れたゴミ袋というのは、なんとなく嫌なものを感じます。
 この辺、一人暮らしを始めてもうそれなりになるのに、まだまだ親元で暮らしていたときの気分が抜けていないんだなぁと思います。


 そう、私――倉田佐祐理が一人暮らしをするようになって早数ヶ月が過ぎました。

 お父様とお母様に無理を言って、こうしてアパートを借りて。
 初めてのアルバイトというものもしてみて。
 大学とアルバイト、そして家事全般という生活はなかなかに疲れます。


 本当は――そう、本当は一人ではなく、佐祐理の親友と二人暮らしの予定でした。
 けれど、ちょっとした事件のせいで、佐祐理だけがこうして先に一人暮らしをすることになっています。


 二人になれば、少しは楽になるのでしょうか?
 いえ、舞――佐祐理の親友の名前です――は、あまり家事が得意ではないようですから、ひょっとすると苦労が二倍に、などと言うことにもなりかねません。

 けれど、それはそれで楽しそうです。
 色とりどりの材料を前に、困った表情の舞。
 そして、佐祐理が手をとって、ゆっくりと、少しずついろんなことを教えていく。

 もちろん、佐祐理が教えてもらうこともたくさんあるのでしょう。
 そうして、二人で時を過ごす……。


 ええ、きっと。
 それはとても素晴らしいことだと思います。



 だから、いつか来るであろうその日のために、今は佐祐理にできることを、一日一日をしっかりすごしていきましょう――






 
Kitten that picked it up on rainy day







 そこまで書いて、佐祐理はペンを置いた。


 一人暮らしをするようになってから、佐祐理は日記を書き始めた。
 と言っても、毎日ではない。

 不定期に、何か思うところがあったとき、書きたいだけをつらつらと日記に書き記す。
 朝、昼、晩、それすらも関係なく。

 読み返してみれば、間隔は三日から最大一週間も空いていることもあるし、量もほんの数行だけのときから、数ページ書かれているときもある。


 まるっきり、不規則、気まぐれ、ばらばら、統一性がない。

 だが、それでいいと思う。


 決してだらけるのでも、自堕落になるのでもなく。
 ただただ、自然体に。

 ありのままの自分でいようと、そう決めたから。


「んーっ」


 体をそらして、猫のように伸びをする。

 今日は、久々にバイトのない休日だ。
 思いっきりのんびりするもよし、どこかに買い物にいくもよし。

 もっとも、あまり無駄遣いはできないが。


「あ、そう言えば、そろそろ買い出しに行かなきゃですねぇー」


 確か、冷蔵庫の中にはほとんど何も残っていなかったはずだ。

 佐祐理はパジャマ代わりのワイシャツを脱ぎ、初夏らしい、ペパーミントグリーンのワンピースに着替える。
 念のため、空模様と天気予報を確認。


「ふぇ……一雨来るみたいですね」


 寒くなりそうだなと思い、ワンピースの上から薄手のストールを肩にかける。
 知り合いの後輩が持っていたのを見て、思わず欲しくなって買ってしまったものだ。

 こういうちょっと肌寒いときに重宝している。


 最後に、戸締りやら何やらを確認し、傘と買い物袋――地球環境に配慮することは大切だ。エコポイントも貯まるし――を持って、外へ出る。


「さて、戸締りよし。火の元よし……それじゃあ、行ってきます」









 そして――、


「はぇー、結構降ってきちゃいましたね」


 買い物を終え、いっぱいになった買い物袋を片手にスーパーから出てきた佐祐理は、しとしとと、しかしとめどなく降りしきる雨模様を見ながらそう呟く。


「待ってても止みそうにないですし……ここは、強制突破しかないですね」


 よし、と自分に気合を入れ、雨の中に駆け出す。

 買ったものができる限り濡れないように胸に抱き、傘は心持ち進行方向に。
 時々、傍らを走り抜ける自動車がしぶきを跳ね上げるのを辛くもかわし、ステップを踏むように水溜りを避けて。

 それでも、雨は佐祐理の服を、髪を容赦なく濡らしていく。







 後半分、という所まできて、佐祐理はいつもの道ではなく、ちょっと薄暗い脇道へと飛び込んだ。

 こちらの方が近道なのだ。


 普段は危険を避けるために通らないようにしているが、こんな雨の日に不審者などそうそう出ないだろう。


「こんど、良い物があったら、レインコートと長靴でも買いましょうかね……」


 これから梅雨になるにつれて、こうして雨に降られることも頻繁になる。
 決して、無駄な買い物ではないはず。



 そんなことを考えながら歩いていると――


「みゃあ〜」


 小さな、本当に小さな、弱々しい鳴き声。
 声のほうを見れば、そこには予想通り、ずぶぬれのダンボール箱。


「ふぇ……」


 中に何が入っているかなど、見るまでもなかった。


 どうしよう、と佐祐理は戸惑った。
 もちろん、気持ちとしてはすぐにでも助けてあげたい。

 だが、命を飼うというのはおおごとだ。
 最後まで責任が持てるのでなければ、安易に手を差し伸べるべきでない。
 それは、わかっている。

 だが……


「――気づいてしまったら、見捨てることなんてできませんよね」


 ゆっくりとダンボールへ近づいていく。


「ふみぃ……」
「はぇ〜〜〜」


 驚いた。


 艶やかな黒い体毛に、翠緑の瞳。
 その姿は、どこか佐祐理の親友に似ていた。

 足の先端辺りが、まるで靴でも履いているかのように真っ白なのがチャームポイントか。


 困った。
 これでは本当に見捨てる事などできないではないか。


「…………」
「みぃ?」
「ふぇ……」
「みゃお」
「…………」
「みゃあっ」


 ゆっくりと、濡れた体を抱き上げる。


「ちょっと窮屈でしょうけど、我慢して下さいね」


 買い物袋の中を整理して、子猫のためのスペースを空けてやる。
 そして、子猫の入った買い物袋をしっかりと胸に抱き、佐祐理は自分が濡れるのも構わず、アパートに向かって走るのだった。








 それから、佐祐理と子猫の共同生活が始まった。


 幸い、アパートから大学へはすぐそこなので、講義の合間や昼休憩を使ってアパートに戻り、世話をしてまた大学に戻る、と言う事が可能だ。

 子猫の名前は、親友の名前を(勝手に)もらって『まい』と名づけた。
 無論、女の子だ。


 佐祐理の住んでいるこのアパート、実は契約事項には、ペット不可とは記載されていなかった。
 とは言え、見つかると色々言われるだろうから、当面は秘密にする事にした。

 まいもその辺の事情が分かっているのか、わりとおとなしくしてくれている。


 寝る時は、ちょっと暑いがまいが風邪など引かぬよう湯たんぽを置き、その横で佐祐理も一緒に眠った。
 寝相の良さには自信があるのだ。

 寝てるから本当のところは知らないが、とにかくそんな感じで夜も一緒。
 他には寝る前に猫じゃらしで遊んであげたり、撫でてあげたり。

 それと、まいは不思議と水が平気だった。
 雨の日に佐祐理に拾われたから、「雨=佐祐理」と言うような方程式でもできているのかもしれない。
 そんなわけで、夜は佐祐理と一緒にシャワーを浴びるのもまいの日課だったりする。




 そして、しばらく後。
 気象庁の入梅宣言から数日たったある日。


 生来真面目な性格の佐祐理は、講義には真面目に出るほうだ。
 ただ出るだけではなく、きちんと講義を聴いているし、もし疑問や質問があれば、積極的に教授に聞きにいく。

 そんな佐祐理だから、教授に顔を覚えられるのも早かった。
 そして、それゆえ、ちょっとした発表をする事になってしまった。

 題材は、中世ヨーロッパの都市計画について。


 それだけなら良かったのだが、さらに数日後には民俗学の講義のほうで、日本北部と南部別に分けた漁民の暮らしに関するレポートがあった。


 期間としてはレポートの方が先だが、発表となれば色々下準備が必要だ。
 結局、両方を並行してやる事に決め、図書館でいろいろと資料を借りて帰宅した。


 佐祐理が帰ってきたのを知ったまいは、すぐさま佐祐理がいつものように遊んでくれるものだと思っていた。
 だが、佐祐理は沢山の本を机の上に積み上げ、熱心に書き物をしている。

 まいが遊んで〜とじゃれついても、片手で軽く彼女を撫でるだけで、全然かまってくれない。


「ごめんね。今日、佐祐理はやらなくちゃいけない事があるから……」


 最初は諦めて隅っこで一人遊んでいたまいだが、やがて飽きてきたのだろう。
 再び、佐祐理の元に行ってじゃれつきはじめた。


「ふぇ……今は駄目だよ」


 そう言って、佐祐理はまいを足元から引き離す。

 すると、まいは、どうやら遊んでもらえるものと思ったらしい。
 再び佐祐理の足に体をこすり付ける。


「だから、駄目だってばー」


 じゃれつく。
 引き離す。
 じゃれつく。
 引き離す。
 じゃれつく。
 引き離す。

 引き離されれば離されるほど、熱心に佐祐理にじゃれつく。


「もう、何度言ったらわかるんですか。終わったらいくらでも遊んであげますからっ」


 さすがに怒った佐祐理は、もう足元のまいを気にせず、一心不乱にレポートに向かう。
 まいはしばらく一人で佐祐理の足にじゃれついていたが、どうやらもうかまってもらえないということに気づいたらしい。


 今度はむりやりかまってもらおうと、佐祐理の体によじ登ってきた。


「ふぇっ!?」


 驚いた佐祐理が、思わずまいを引き離そうとする。
 その瞬間、まいが机に向かってジャンプ。

 広げられていた本やらレポート用紙やらを盛大にめちゃくちゃにしながら着地した。


「――っ! 駄目でしょっ!!」


 叱ろうと伸ばされた佐祐理の手に驚いたまいは、思わず反射的にその手に爪を立てた。


「痛っ!」


 まいがまだ子猫だったのが幸いか。
 ざっくり、というほどではないが、それでも佐祐理の繊手に紅い珠が浮く。


「……もう、まいなんて知らないからっ!」


 そう言って、涙目でまいを追い払う。
 追い払われたまいは、みゃお、と悲しげに一つ鳴き、しかしおとなしく部屋の隅っこに行くと大人しくなった。



 そして、散らかった机を片付け、腕の傷を簡単に消毒し、佐祐理は再びレポートに向かった。
 けれど、思わずまいにしてしまったことが脳裏をぐるぐるとまわり、結局ほとんど進まぬうちに意識が遠くなっていった……。





 佐祐理を微睡みから引き戻したのは降りしきる雨音。


「ふぇ……あのまま眠ってしまったみたいですね」


 机から体を起こし、伸びをする。
 無理な体勢で寝ていたためか、ちょっと節々が痛んだ。

 そして、そこで思い出す。


「あ……。まい〜、昨日はごめんね……」


 思わず気が昂ぶって怒ってしまったが、今になって考えれば何をあんなにむきになっていたのだろうと思う。

 相手は猫で、しかもまだ子猫なのだ。
 遊んで欲しがるのが当然だろう。


「まい〜……?」


 おかしい。
 いつもなら呼べばすぐに寄ってくるのに。

 ひょっとして、拗ねているのだろうか?


 佐祐理はまいの名前を呼びながら、昨日まいがいたはずの部屋の隅の方へ近づいていった。














 まいは、昨日と同じくそこにいた。

 いつものように丸くなるのでなく、横向きに倒れて。
 手足をだらりと伸ばしたまま。


 動かない。










 雨が降っている。
 冷たく、悲しく、しとしとと。

 ぽたり、ぽたりと佐祐理の体をぬらす。


 いや、違った。
 雨ではなく、涙。

 気がつけば佐祐理は、呆然と床にへたり込んだまま、泣きじゃくっていた。



 また、失ってしまった。



 こんなはずじゃなかったのに。

 こんなこと、したくはなかったのに。




 だけど、現実は残酷で。
 まいは、倒れたまま動かない――



「――――ぃ」
「ふぇ……!?」


 かすかな、ほんのかすかな。
 鳴き声というより、ただ息を吐いたといったほうが正しいようなかすかなものだったけれど。




 たしかにまいは、佐祐理の姿を認めて鳴いた。









 まいの体が少しでも温まるよう、タオルや湯たんぽで温めながら。
 まいが濡れないよう、もう二度と離さないよう大切に抱きしめながら。

 佐祐理は、雨の降りしきる街へと飛び出した。









 まいを拾ったとき、一応調べたことがある。

 この街に、たった一軒だけある獣医さん。




 走る。


 すれ違う自動車に水を撥ねられても。


 走る。
 走る。


 降りしきる雨が、佐祐理の髪を、体を、容赦なく濡らしても。


 走る。
 走る。
 走る。


 もう二度と、失いたくはないから。


 走る。
 走る。
 走る。
 走る。


 その手の中の温もりを、命を、大切に抱きしめながら。


 走る。
 走る。
 走る。
 走る。
 走る。














「あ――――」





 ――都合により、6/30まで休業いたします。




「そん――な――」



 無情な、現実。

 そんな張り紙の貼り付けられた、人の気配のない診療所の前で。


 佐祐理は呆然と立ちすくんだ。







 どうして、現実はこんなに残酷なのだろう。


 あの時も、そして今も。


「お願いです……」


 もう、佐祐理にはどうしていいのかわからなかった。


「誰か……」


 小さく震えるまいを抱きしめたまま、嗚咽交じりに言葉を搾り出すことしか出来ない。


「お願いだから……」


 ただ、それでも、何かに縋りたくて。


「助けて……助けて、ください……」






 雨が降りしきる。
 しとしとと。とめどなく。

 佐祐理は、動かない。
 ただ、まいを抱いたまま、静かに俯いている。
 その身体が、雨に打たれるのも構わず。
 それでも、まいを濡らさないよう、懸命に庇いながら。



 ちりん。
 小さな、鈴の音が響いて、


「あぅ……どうかしたの?」


 躊躇いがちに、少女はそうやって声をかけた。






 佐祐理はゆっくりと顔をあげた。


 佐祐理よりわずかに年下くらいか。
 明るいツーテールの髪に、カエル模様の緑のレインコート。
 傘も、そして長靴もレインコートと同じ緑で、傘にも小さなカエルのキャラクターが描かれている。

 手首には小さな鈴のついた髪留めが巻かれていて、先ほどの鈴の音はどうやらこれらしい。


 佐祐理が半ば呆然と少女を見つめている間に、少女の方は佐祐理が何を抱いているのかに気づいたらしい。

 あう、と小さく息をのみ、そしてくるりとある方向を向かって、

「ついてきてっ」


 ふえ? と佐祐理が疑問符を浮かべる。
 すると彼女は怒ったような、照れ隠しのような声音で、一言。


「その子を助けたいんでしょっ? だったら、早くついてくるっ!」


 有無を言わさず、佐祐理の腕をつかむようにしてある方向へと引っ張っていった。








 そして、少女が佐祐理を連れてきたのは、一軒の家の前。
 少女はポケットから鍵を出し、扉を開け、そこで佐祐理の方へと振り返り、


「ぼけっとしてないで、とっとと入るっ!」
「は、はい……」


 少女の剣幕に圧されるように、佐祐理も家の中に足を踏み入れる。


「お邪魔します……」


 この家、たった今少女が帰ってきたばかりで、それまでは誰もいなかったであろう。
 けれど、ここはどこか、不思議とあたたかい感じがした。


 少女は佐祐理を連れたままずんずんと進んでいき、リビングらしき部屋へとたどり着く。


「ほら、その子見せて」


 言われるままに、ゆっくりと抱えていたまいをテーブルの上に横たえる。

 少女はしばらく、まいに触れたり、口元や鼻の辺りを見ていたが、やがてふう、と息を吐き、


「たぶん、風邪をひいたんだと思う」
「風邪……ですか?」


 眼をぱちくりさせながら佐祐理が聞き返す。
 すると、突然少女は、

「風邪って言ったって、甘く見ちゃ駄目なんだからっ。こういう小さい子はね、ただの風邪だって命取りになるんだからっ。
生きものを飼う時はね、かわいいかわいい言ってるだけじゃ駄目なんだからねっ!」


 立て板に水で一気に言った。


「返事はっ!?」
「ふぇ……はい」


 思わず返事してしまった。
 この少女、佐祐理より年下なのに、なんとなく先生のような雰囲気がある。


 佐祐理がそうやって呆けていると、また怒られた。


「ほら、ぼうっとしてないで」


 そして、何処から持ってきたのか、タオルと着替えを佐祐理に押し付ける。


「アンタまで風邪ひいたら、この子の世話する人がいなくなるでしょう? とりあえず、シャワー浴びて着替えて着なさいよっ」


 反論する間もなく、風呂場に連れて行かれる。


「あの子の面倒は真琴が見ておくから、ちゃんと肩まで浸かって、100数えてから出てくるのようっ」


 ばたん、と扉が閉じ、脱衣場に佐祐理一人、取り残される。
 なんだか、圧倒されてしまった。

 仕方がないので、好意に甘えてシャワーを浴びる事にする。


 確かに、気づけばすっかり身体が冷え切っていた。
 くしゅん、と一つかわいらしいくしゃみ。

 そして、温かなシャワーを浴びながら、ふと気づく。


「真琴……って言うのが、あの人の名前なんでしょうか……」


 不思議な子だな、と思う。
 見た目はあんなに子供っぽいのに、どこか大人びていると言うか。
 あるいは、大人になろうと精一杯背伸びをしているのかもしれない。

 どちらにせよ、魅力的な少女だ。


「あ……まだ、お礼を言ってませんでした」


 あれよあれよと言う間に流されて、きちんとお礼を言っていない。
 出たらちゃんとお礼を言わなければ。

 そう思いながら、コックを閉じる。


 脱衣場に戻り、バスタオルを手に取ろうとしたその時だ。

 玄関の方から、どこか聞き覚えのある声。


「ただいまーっと。あー、思いっきり濡れちまったなー」
「あ、ゆういちー。おかえりー」




「……ふえ?」




「おう真琴、帰ってたのか」
「あのね、祐一、今――」
「悪ぃ、濡れたから、先にシャワー浴びて着替えるわ」
「ちょ、祐一!」


 少女――真琴が制止するのも聞かず、祐一が脱衣場へと入ってくる。


 眼が、あった。


「は、はぇぇぇぇぇっ!?」
「さ、佐祐理さん!?」


 驚いて身体を隠すのも忘れていた。
 湯上りの、軽く火照った身体がいっそう熱くなるのを感じる。


「あ……いや……その……」
「ふぇぇぇぇぇ」


 その膠着状態を破ったのは、祐一を追いかけてきた真琴。


「いつまで見てるかーーーーっ!!」


 蹴り。


「はぶわっ!?」











「ごめん、佐祐理さんっ。俺が悪かった」
「そうよぅ。祐一が全部悪いっ」
「いえ、その、佐祐理も悪かったですから……」


 それからしばらく。
 水瀬家――この真琴と言う少女も、そして祐一も居候の立場で、家主は祐一の叔母らしい――のリビングにて。


 確かに真琴の言ったとおり、まいは風邪をひいていただけらしく、今は祐一が用意してくれたダンボールの中で静かに寝ている。
 妙に手馴れている祐一を疑問に思った佐祐理が尋ねると、祐一は理由を答えてくれた。
 そして、佐祐理が先ほど真琴から言われた事を話すと、


「あはははっ、真琴、その台詞、昔俺が言ったののまんまじゃないかっ」
「うぅー、いいじゃないのよっ。名台詞はいつだって名台詞なんだからっ」


 あの、「かわいいだけじゃ駄目〜」云々と言う台詞は、どうやらかつて、祐一が真琴に言ったことらしい。
 今はふらりと散歩に出かけているが、水瀬家にも一匹の猫がいて、そのせいで二人とも猫の扱いには慣れているとか。


 それと、もう一つ。
 真琴が、どこかお姉さんっぽく見えるのは、近くの保育園で保母さんのアルバイトをしているから、らしい。


「ま、真琴はまだまだお子様だけどな」


 そう言って、子供にするように頭を撫でる祐一に、真琴が真っ赤になって反論する。


「そんなことないわよぅっ。真琴は、もう充分に『大人の女』なんだからっ」
「そうですよ、祐一さん。真琴さんは充分に大人らしかったですよ」


 佐祐理も真琴に加勢する。


「ぐわ……佐祐理さんまで」
「はい。なんと言っても真琴さんは佐祐理とまいの恩人ですから」


 そう言って、佐祐理は悪戯っぽく笑った。


 しばらくそうして談笑していると……。


「みゃあ〜」


 ダンボールの中で、まいが元気な鳴き声をあげた。
 真琴がまいを抱き上げ、軽く撫でる。


「うん。だいぶ落ち着いたみたい。これならもう、大丈夫だと思うわよ」
「ありがとうございます、真琴さん。本当に、なんてお礼を言ったらいいか……」


 すると、真琴は照れくさそうに、


「いいわよぅ。それより、その子の面倒、ちゃんと見てあげてね。何かあったらまた真琴が相談に乗るから――」
「真琴なんかが役に立つとは思えないけどなー」
「ゆーいちっ!」
「祐一さんっ!」


 茶化した祐一に、女性二人の反論が飛ぶ。


「は、はいっ。ごめんなさいっ」


 そんな祐一を見て、佐祐理と真琴は……


「あはははっ」


 顔を見合わせ、声を上げて笑うのだった。


「みゃ〜」
「うなー」


 そんな三人を、まいと、散歩から帰ってきたピロが、何やってんだか、と言う顔で見つめる。



 気づけば、あれだけ降っていた雨はいつの間にか止み、太陽が顔を覗かせていた――。










 梅雨があけ、夏の近づく頃。


「まい……ここが、佐祐理たちの通っていた学校だよ」


 とある日曜日、佐祐理はまいとともに去年まで通っていた高校にやってきていた。


「佐祐理はね、ここで舞と会ったんだよ」


 みゃう?とまいが佐祐理を見上げる。
 あ、と佐祐理は苦笑し、


「まいじゃなくて、佐祐理のお友達。まいの名前はその人から取ったんですよ」


 なるほど、とでも言うようにまいが一声鳴く。


 一年、二年、三年教室の階段を上り、さらにその上へ。
 そこは、あの日と何も変わっていなかった。


「懐かしいですね……本当に。何もかもが、あの日とおんなじです」


 屋上へ出る階段の踊り場。
 かつて、佐祐理がかけがえのない友人とともに過ごした思い出の場所。


「さあ、お昼にしようか、まい」


 言って、持ってきていたレジャーシートとお弁当を広げる。
 一人ぶんにしてはやけに大きな重箱と、まい用の猫缶。


「さて……それじゃあ、いただきま――」


 その瞬間、佐祐理の後頭部にチョップが入る。
 誰の仕業かは、振り向かなくてもわかっていた。


「もう……痛いなぁ、舞」
「佐祐理が……声をかけてくれないから。私一人じゃ……どうしたらいいかわからない」


 佐祐理の親友。
 卒業式を目前に大怪我で入院して、一緒に卒業することも、大学に通うこともできなくなってしまったけど。


「一人じゃ何も出来ないのは、佐祐理も同じだよ」


 そう言って振り向き、親友の身体を抱きしめる。

 入院生活のせいか、ちょっと痩せたように感じる。



 あの日。
 まいが風邪をひいて倒れた日も。
 佐祐理一人では何も出来なかった。


 ……いや。
 一人暮らしをして気づいた。
 自分一人でできる事など、たかが知れている。
 人は、一人では生きていけないのだ。

 だからこそ、親友が――仲間がいる。


「退院おめでとう、卒業おめでとう、そして……おかえり、舞」
「うん……ただいま、佐祐理」


 みゃお。
 自分も忘れるな、とでも言わんばかりにまいが鳴く。


「いつ頃からこっちに来られそう?」
「実は、荷物はもうまとめてある。今日からでも別に構わない」


 そっか、と佐祐理は頷き、


「よし、じゃあこれ食べたら、一緒に舞の家に行こうっ。舞のお母さんに挨拶もしなくちゃいけないし」
「挨拶……?」


 疑問符を浮かべる舞に、佐祐理は悪戯っぽく微笑む。


「うん。不束者ですが、これからもよろしくお願いします――ってね」


 舞の顔が赤く染まる。
 そして佐祐理は親友の目蓋に、そっと親愛のキスをした――












 最近、気づいた事があります。
 佐祐理が今こうしていられるのは、お父様、お母様、舞、祐一さん、真琴さん、まい……それに、一弥。

 たくさんの人がいてくれたからなのだと言う事。


 もし、この中の誰かが欠けていたとしても、今の佐祐理はいなかったでしょう。


 たくさんの人がいて、かけがえのない過去があって。
 佐祐理は今、ここにいます。

 佐祐理がこうして分けてもらったたくさんの幸せを、今度は誰かに分けてあげられたらいいなと、そう思います。


 そして、この大切な人たちと、いつまでも一緒にいたいと、そう思います。


 ずっと、ずっと。
 これからもずっと……