“静かな夜に”





   唐突だけれど、僕は家を飛び出した。
 いつもいつも親は僕の言うことなんて聴いてはいないし、僕が言って欲しいことは何もいってくれない。言ってくるのは「受験」だとか「勉強」とかそんなことばっかりだった。そんなことだから子供の反抗したくなる気持ちだってわからないんだ。こんな親のところにはもう居たくない。酷く親に嫌気がさして学校から帰ってきてずっと部屋に引きこもった。
 何回か、母親と妹が僕の部屋の扉をノックして僕を呼んだけど、ずっと無視を決め込んでいたらいつの間にかこなくなった。どうやら放置されてしまったみたいだった。
 そして夜に家族全員が寝静まったのを待って、僕は制服のまま家を脱走。ついでに食卓の上に置いてあったパンを一つだけ掴んで。
 
 そのまま僕は夜の繁華街に飛び出して、何をすることもなくぶらついていたら絡まれてしまった。
 「こんな時間に、そんな格好で出ているお前のほうがわりぃんだよ、アホ」
 そんなことを言われたと思う、そうして案の定人目のつかないところに連れて行かれ、殴られる。
 典型的な馬鹿な人たちだなぁ……そう思いながらも周りを囲まれていて、僕には逃げる事は不可能。
 複数の人に囲まれて、右から左から徹底的に殴られた。
 もともと荒っぽい事には縁が無かったから、何もすることが出来なかったんだ、仕方が無いことだった。
 もちろん反抗しようと思ったけれど何も手を出せず殴られ続けた。
 散々僕を殴ったあと、奴らは僕の制服のポケットから財布を抜き取る。
 「こんだけしかねぇのか、時間の無駄だったな」
 「しけてやがんな。まぁ、これで何か買うことが出来るんじゃねぇ?」
 「すこししかねぇけどな。それでいいよ。」
 「おいおいこの餓鬼、一人前にタバコなんて持ってやがるぜ」  「がはははは! おいそれ少しもらっておこうぜ」
 そういって奴らは内ポケットに入れておいた新しいタバコの包装を破り数本抜き取った。
 そしてそれぞれ好き勝手言いながら夜の街に消えていった。無力だった、ただ殴られていただけ。
 親にも反抗できず、不良にも反抗できない自分に嫌気がさしたけれど、自分で命を絶つほどの強い思いも無かった。
 殴られて、倒れこんだままの格好で僕はしばらく何も考えられずに横たわっていた。
 ざわざわと繁華街特有の話し声と、遠くから誰かを呼び止めているような声が耳を揺らす──。


 ──買っておいたタバコを吸おう


 そう思った僕はゆっくりと立ち上がった。
 たしかここを結構行ったところに小さい公園があったはずだ──そこは住宅街の真ん中にあって人通りも少ない。人にも見られないだろうし補導もされないだろう。僕は自分の服装を見ながらそう思った。
 仮にも制服だったから、煙草をすっているのを見られると確実に警察官に補導されると思った。さらに今の僕の格好を見ると何かあったことが丸わかりだった。それにこんな姿は人に見られたくなかった。
 煙草の箱をことこと言わせ、歩くたびにきしむ身体を引きずりながら僕は公園に向かった。

 

 
 ☆ 


 

   案の定、公園に人はいなかった。
 僕は公園に備え付けられているベンチに腰を落ち着ける。ようやく一息つけた気がした。
 そうしてさっき買ってきた煙草を吸おうとポケットに手を突っ込んだ。そのときにふと横を歩いていた家族に目が留まる。
 煙草の表面を覆っているビニールをはがしながら、僕はその家族をじっと見てみた。
 その家族は仲がよさそうで、今の僕には眩しすぎた。ちょっとしたコンビニでの買い物の帰りなのだろうか、三人とも上に防寒着を着ているけど下は薄手のパジャマのようなものがちらりと見えた。風呂上りだったのだろうか、髪の毛も湿っているように見える。
 遠目からも仲良く話しているのがわかって、僕は複雑な気持ちを感じた。
 それを直視することが出来ず、視線を煙草にずらすと一本咥えて父親のところからくすねてきたライターで煙草に火をつける。
 ゆらゆらとゆれるライターの火が、妙に幻想的だ。
 煙草に口をつけてすっと、息を吸ってみる。苦い煙が肺の中をを駆け回り、肺胞を傷つけていく。やっぱりむせた。でも今の僕にはそれは必要なもの。
 もう一口すってみる。今回はさっきよりむせなかった。
 この薄汚れた学校の制服を少し羽織っただけの身体に、12月の寒さがしみる。空には少ないけれど明るく星が瞬く。
 なら帰ればいいじゃないか、そう考える自分がいる。
 でもさっきのあとだ、帰れない、そう思う自分もいる。
 だが大部分の意見は、やってられない──こんな親なら要らなかった、そう考えている。
 ふぅ、と煙を吐き出す。それらは漆黒の空の中に解けて無くなり、残り香だけを残して実体を失う。
 ぼんやりとそれを見ていると先ほどの家族が公園の中に入ってきた。
 なにしてんだよ、早く家に帰れよ。そう思いながらも横目でその家族を追うのを止められなかった。
 子供はただ走っているだけなのに、楽しそうだった。その両親も、特に何もしていなさそうなのに笑顔だった。
 何が楽しいのだろう、ただ走り回っているだけじゃないか。あんなに無邪気に走ってさ、こんな惨めな思いを僕はしているってのに。世の中は不公平に出来ているんだな。
 それらを全て横目で眺めながら僕はまた毒の煙を吸う、吸い込むたびにぼんやりとしていく感じがした。
 途端、子供は何もないところで転んだ。子供は僕のことを気にせず大声を上げて泣き出した。そのまま父親のほうへ走り出し、そのまま彼の足にしっかりと抱きついた。父親はやんわりとした笑顔でそれを見ている。
 男なのに綺麗な笑顔だなと思った。……家の親父とはえらい違いだ。笑顔なんて最近見てない。
 その父親は未だ泣き止まない子供の髪の毛を撫でていた。一回二回、ごつごつした大きな手で何回も。その姿を母親が微笑んでみていた。二人とも話しながら、急いでしかし優しく子供をあやす。
 父親と母親、二人で協力する姿なんて久しぶりに見た気がする──最近家の親は僕の進路の事で喧嘩ばっかりしていて、こんな二人のように穏やかな姿を見てなかった。
 その家族は僕の家族が失ってしまった、僕には大切に思えるものをしっかりとその手に握っている。

 それを見ると懐かしかった。
 それを感じると哀しかった。
 
 それでもからからに乾いた目からは何も零れ落ちなかった。
 泣き止んだ子供を真ん中に挟んで、その家族は公園から去っていく。
 真ん中に挟まれた子供はその両手を両親とつないで、泣いていたことが嘘のような笑顔で。
 僕はその家族をベンチに座ったまま見送った、そのままの体勢で僕は霧がかっていたまだ両親と仲がよかったころの記憶を思いだした。



 晴れ渡った青空の下、砂場で遊ぶ僕と妹。
 妹と僕二人を遠くで見ている両親。
 砂場の中で妹と遊んでいる、記憶の中僕は笑顔だ。自分では今あまり笑わないと思っているから、余計に自分のことだけど懐かしく見えたんだ。
 砂場の中の僕は砂で遊ばずに、中を走り回っていた。
 遠くからそれを見ている両親は今では想像もつかないほど穏やかな表情で語らっている。
 その両親のほうに駆け寄ろうとする幼い頃の僕。
 ばたん、と大きな音を立てて転ぶ。
 その拍子に砂煙がもうもうと立ち上がった。未だ両親はそれに気がついてはいない。
 その砂煙が自然に消える前にその中から僕の大きな鳴き声が響いた。それを聞いた両親は話をやめて急いで僕のほうに走り寄ってくる。こんな顔を僕の両親が本当に出来るのだろうか、そう思ったほどの必死な表情をして走り寄ってくる。その間も僕は未だに泣き止まない。倒れたところそのままに座り込んで泣きじゃくっている。
 そうしてすぐに両親は僕の元についた。
 それに気がついた僕は、ばっと起きて父の足に抱きついて、べそをかいていた。
 今見ると、恥ずかしいし、馬鹿らしい。それでもその光景には今の僕には否定できない何かがある。
 自分の足に抱きついている息子を苦笑いしながら見ている父親。でもその笑い方はさっきの家族の父親の笑い方、そのままだった。自分の父親にもあのような時期があったんだな、と初めて思った。
 そのままの表情で泣きじゃくる僕を、父は今よりも強くたくましく見える手で優しく僕の頭を撫でる。
 次第に僕の鳴き声が小さくなっていった。
 「まったく、やんちゃな子だな」
 「あなたに、似たんですよ。きっと」
 「そうかもしれないな」
 「ふふふ、元気な事は良いことですよ。この子が元気で育ってくれれば、私は十分ですから」
 「ふぅ──だが今からはそうも言ってはいられないだろうな。出来れば俺のようにはなって欲しくない」
 「大変な時ですが、きちんとまっすぐ育って欲しいですね。この子とあの子、二人とも」
 「ああ、頑張らないとな……」
 そんな会話をしながらも、父は僕が泣き止むまで頭を撫で続けていた。
 

 ああ、こんな時もあったんだ。
 つぅ、と乾いていたはずの目から涙が零れ落ちる。
 その涙は付けっぱなしだった煙草を湿らせた。
 そして、僕は自覚した。
 甘えていたかっただけだったのだ、僕は。自分に、相手に、人生に。
 何でも自分の思い通りになる、どうにでもなるさ、どうにかなる。
 そんな自分の口癖が馬鹿に思えてくる。
 結局、悪かったのは自分だった。親に当たっていたのは自分の甘さを認めたくなかったんだ。
 「どうにかなるさ。結局、最後はなるようにしかならないんだから」
 最後に母親とけんかした時に言い放った言葉。今はその言葉が自分でも情けなく思える。
 それは極限まで努力したものだけが言う事を許される言葉ではないだろうか? やることはすべてやり最後は運を天に任せることしか出来ない、そんな人にのみ。
 その努力を僕はやってきたのだろうか。
 そんなことは絶対にない、いつの頃か全てに無気力になっていたから。
 夜空を見上げてみる。
 漆黒の世界に瞬く星が、涙でぶれてよく見えなかった。
 帰ろう? 僕の中の一部が、再び僕に問いかける。
 うん、と今度は肯定で答える。
 手に持った火のついた煙草と、ケースを見つめる。
 さっきは幻想的に見えた火も、今はその力を感じられない。
 煙草はもみ消し、ケースはゴミ箱に放り捨てる。
 殆ど物音を立てずにケースは放物線を描いて飛び、色々なものが入った箱の中の一部となった。
 さぁ、やることはやってみよう。
 それが今から僕に出来る第一歩だ。
 僕は家に向かって歩き出す、不良に殴られた傷は不思議と痛みを感じなかった。
 今なら、やってやれないことは無いさ。
 でも、あの家族を見なかったらこんな気持ちにはならなかっただろう。昔も思い出さなかっただろう。
 振り返ってみる、当たり前だけど公園の中には誰もいなかった。
 でも、僕はそこに記憶の中の父と、撫でられている僕を見た気がする。
 僕は再び家に向かって歩き出す、歩くだけでは足らずに走り出す。
 今、僕は笑っている。その笑顔が止まらない。
 そんな僕を後ろから昔の僕が応援してくれている、そんな気がした。