人、時の流れ



人、時の流れ






 数年間。
 それは俺が、渚の死を認められずに逃げ続けていた時間。

 その間の俺は渚の死という認められない現実から逃げ続けていた時間。
 渚が命と引き換えに残した、汐を早苗さんに預け、俺は唯ひたすらに仕事に打ち込んだ。
 何も考えず、何の趣味を持つこともなく、何の実りもない灰色の数年間。

 そしてそれは渚の死とともに、その面影を持った汐を受け入れることが出来なかった時間でもある。
 そうして年が経ち、幾度も春が訪れて汐が成長しても俺はまだあの灰色の時間の中にいた。

 あの時の俺はただ、自分が手に入れたぬくもりをまた失うのが怖かったのかもしれない。
 あの暖かな時間を。
 だが結局何を言っても、周りから見ればそれは逃げ続けていた者の言い訳にしか過ぎない。
 逃げていたのは事実だったのだから。

 悪いのは自分自身。
 現実を見つめられず、逃げ出した俺が悪い。
 でももうあれ以上暖かな時間を失う事が嫌だったから。
 ならば、ぬくもりなんていらない。
 そう、灰色の時間の中で考えていた自分がいた。

 もしもあの時、早苗さんやおっさんが企んだ、俺と汐の二人で旅行をさせる事が無かったら俺はまだあの灰色の時間の中にいたのだろうか。
 もしもの話はあまり好きではないけれど、確かに間違いなく俺はまだその中でうずくまっていただろう。そういいきれる。
 ぬくもりを失いたくないならもう手に入れることなんてしない、と考えて。

 だけれど、その旅の中でまた気がついてしまった。
 いや、それに気がついてはいたけれどずっと拒み続けていた。
 それはあの時の中で、俺が必死になって拒んできた物だったから。
 失ったものに触れ、俺はまたそれが壊れることに恐れを抱いていた。
 何かを得るためには、危険を冒さなければいけない。
 そうしてその中でしか感じられないこともある。
 俺の場合は、幸せだった。

 あの時の中で止まっていた俺には、怒りか呆れしか感じていなかった、いや感じようが無かった。
 幸せを感じられることなんて、なかったから。
 しかしそれを旅の中の広い花畑、俺の胸の内で泣きじゃくる汐を見て感じた。

 俺にも、まだ幸せを感じられるぬくもりがあったことに。
 そしてまだ幸せを感じられること。
 それはとても身近にあったことに。
 そして俺はまた立ち上がる気になった。
 誰の力でもない、自分自身の力でこの幸せを作りたいと。
 そしてこのぬくもりを自分の手で守りたいと、それは不器用ながら渚と歩き始めたときの俺のように。
 



 



 ――それは親父も一緒だったのだろうか?
 俺が高校時代をすごしたあの時間は親父にとっても灰色の時間だったのだろうか。
 俺のことを「朋也くん」と他人行儀によび、他人として扱う事でもう辛い事を味わわないですむように。
 今思うとそれは親父が俺から奪ってしまったものを悔い改めるような時間だった。
 それが親父の灰色の時間なんだろうか。
 そうして親父はもう色を取り戻し始めたのだろうか。
 こんな出来の悪い息子のために使った時間と、あれ以上俺が何かを失うことが無いように自分から演じ始めた俺とは親子らしい関係を絶つほぼ他人としての生活。

 ……いや、故郷に戻るときの親父の表情を俺は見ただろう。
 かすかに残る、俺の幼少期の親父の笑顔と同じ笑顔、そして掛けられた言葉。
 あれは灰色の時間に捕らえられていた頃の親父の姿じゃない。
 いつかあの時間を含めた恩返しと親孝行しに絶対行くから、待っていてくれよ親父。













 そうして、今の俺がある……
 

 「どうしたの? パパ、目が真っ赤」
 服の裾を引っ張って汐が聞いてくる。
 どうやら公園で遊んでいた友達もいなくなって俺のところに来たところ、この姿を見られたようだ。
 汐に見られてちょっと具合の悪い俺は目を拭って、汐のほうを向く。

 「いや、ごみが入っただけさ。暗くなってきたからそろそろ帰ろうか、汐」
 「うん、帰る」
 まだ目が赤いだろう、そのことが少し恥ずかしくてそっぽを向きながら汐の手を取り歩き出す。
 小さな手で俺の手を握り返してくる汐を感じつつ、アパートに向けて汐の小さな歩幅にあわせて歩く。

 「今日はハンバーグをつくろうな」
 「……楽しみ」
 汐は、にこりと笑顔を作った。
 この笑顔が見られれば俺は幸せだ。
 
 色々な人からの手助けでようやく色を取り戻し始めた俺の時間。
 決意を新たにして、俺は時間を刻む。
  


 そして俺はまた長い坂道を上り始めた。
 今度こそ、このぬくもりを守り抜くと心に誓いを立てて……